ネット記事の信頼性等について

1.最近では、インターネット上で、司法試験に関する様々な記事が公開されています。その内容は玉石混淆で、中には悪質と思えるものも目に付くようになりました。そこで、今回は、このようなインターネット上の記事の信頼性等について、当サイトの考え方を説明しておきたいと思います。

2.一般に、インターネット上の記事の品質を判断するに当たって最も重要なことは、書き手が自称する肩書ないしは実績から判断するのではなく、書かれた内容を吟味する態度であるとされます。ネット上では、誰もが好きな肩書や実績を名乗ることができます。読み手は、それを確認する術がない。だから、書かれた内容を吟味して、真偽を判断するしかない、というわけです。「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい。」などと言われるのは、そのためです。このことは、インターネットというものが登場して以来の伝統的な情報リテラシーとして語られてきました。学術的には、商業広告に関する研究の延長として位置付けられます。

岸谷和広「インターネットにおけるリテラシー概念の展開」関西大学商学論集第56巻第3号(2011年)78、79頁より引用。太字強調は筆者。)

 メディア・リテラシーの受容能力に対応するものとしてインターネット情報に対する懐疑的な視点があげられる。懐疑的視点とは,能力というよりもどちらかといえば,態度として研究される場合が多い。そのため,リテラシーというよりは,懐疑的な態度として位置づけ検討することにする。
 懐疑的な態度は,ある事柄に対して否定的な態度として位置づけられる。主に,広告研究の分野において広告懐疑(Ad Skepticism)として研究されてきた。そこでは,広告の主張に不信感を抱く傾向というように定義されている(Oblermiller and Spangenberg 1988)。マスメディアのテレビ番組制作などとは違い,広告が商品の販売促進として位置づけられる以上,広告が広告の対象となる製品のパフォーマンスを過剰に訴えたりすることがある。そうした広告のメッセージを冷静に見きわめなければならない。広告に対して懐疑的な見方を身につける必要が訴えられるのだ。その懐疑的な見方は,広告の意図を評価し対処する上で批判的であり,重要な能力であると考えられている。

 (中略)

 こうした広告に援用されている懐疑的な態度はインターネット上のリテラシーに適用することが可能である。インターネット上の懐疑的な態度とは,インターネット上の情報を適切に判断するだけでなく,インターネット利用を継続するためのリテラシーということができよう。例えば,フェイスブックなどのSNSのように,会員のプロフィールの実名を公表することで懐疑的な態度を解消するような働きかけも存在する。しかし,未だ無数に匿名のまま情報を発信することが可能なインターネット上では,懐疑的な態度を持ち合わせ高めることは,実りある利用をし,継続するために必要なリテラシーということができよう。インターネットを利用することで懐疑的な態度が高まり,さらにそれによってインターネットで様々な情報を適切に判断するようになる。また,インターネット上の情報に疑うものがあれば,それ以外のテレビ,日常での会話等その他の媒体を利用することで,その情報の真偽を判断することができる。それによってインターネット上から離脱することなく,その利用が促進されると予想できる。

(引用終わり)

 「私は上位合格者なので内容の正確性に間違いありません。」、「俺は完璧なプロなので信じて大丈夫です。」などという言説は、上記のインターネットにおける情報リテラシーとは対極にある考え方です。

3.司法試験に関しては、これに加えて、個人の肩書ないしは実績が誤導的となりやすい、いくつかの厄介な要素が加わります。これは、肩書ないし実績が真実であると確認できる場合にも当てはまることです。
 1つは、法学それ自体の難解さに由来します。法学の知識は膨大です。法令の数自体が膨大であるというだけでなく、それに関する考え方ないし解釈論も、判例・裁判例や学者の数に応じて多種多様で、しかも、比較法も考慮し始めると世界中の法令・解釈論にまでわたります。司法試験合格レベルというのは、上位合格水準を前提にしても、その理解のごくごく一部でしかありません。受験生は比較法なんて1ミリも勉強していないでしょうが、学者レベルになると、急に質問されてもそれなりにスラスラ答えてきます。下記は、法制審議会刑事法(情報通信技術関係)部会第10回会議において、弁護士委員から電磁的記録の偽変造に相当する罪に関する比較法的な質問が出た際の樋口亮介教授の反応です。話しぶりから、事前に調べておいたものを読んでいる感じではないので、とっさに答えているのだと思いますが、こんな感じでスラスラ話せる人は、上位合格者でも1人もいないでしょう(※)。
 ※ 厳密には、議事録にする際に、年や条文の数字などの言い間違いを訂正している可能性があります。

法制審議会刑事法(情報通信技術関係)部会第10回会議議事録より引用。太字強調は筆者。)

久保有希子(弁護士)委員
 もう1点質問です。先ほど樋口幹事からオーストリアの刑法の例を御紹介いただきましたが、以前、比較法の一覧表をお願いしたいということは申し上げております。事務当局において、準備を進めていただいているのではないかと思いますが、刑事手続のIT化に伴って他国でどのような処罰規定が新たに設けられたのかという観点で、もし何か御存じの委員・幹事がいらっしゃいましたら、教えていただければと思います。

 (中略)

樋口亮介(東京大学教授)幹事
 昭和62年改正の頃に随分紹介されたと思うのですけれども、ドイツとイギリスはその時期ですね、イギリスは1981年、ドイツは確か1986年の段階で、文書とデータを等置するような条文を作っています。安田委員から先ほど言及いただいたドイツ刑法第269条はそのような条文であったかと承知しています。また、ニューヨーク州におけるデータ偽造の罪も文書と等置するような条文であり、フランスは偽造、内容虚偽を広く処罰する条文の中で、文書と文書以外のデータなども等置していたはずです。
 サイバー犯罪条約第7条はデータの「forgery」の処罰を要求しており、オーストリアはその対応で規定を設けたと記憶しており、配布資料の検討課題で提案されているものは人が視覚的に見て使うタイプのデータを偽造概念で捉えるという点でオーストリアのものが似ていると考え、御紹介した次第です。

(引用終わり)

 ちなみに、電磁的記録の偽変造の罪については、既に施行済(令和7年6月12日施行)なので、今年の司法試験から出題対象です。代表的な私文書偽造等罪(159条)に関するものだけ掲げておきましょう。公文書偽造等についても同様の規定が設けられています。

(参照条文)刑法159条(私文書偽造等)

 行使の目的で、次の各号に掲げるいずれかの行為をした者は、3月以上5年以下の拘禁刑に処する。
 一 他人の印章等を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書等を偽造し、又は偽造した他人の印章等を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書等を偽造する行為
 二 他人の電磁的記録印章等を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する電磁的記録文書等を偽造し、又は偽造した他人の電磁的記録印章等を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する電磁的記録文書等を偽造する行為
2 他人が押印し若しくは署名した権利、義務若しくは事実証明に関する文書等又は他人が電磁的記録印章等を使用して作成した権利、義務若しくは事実証明に関する電磁的記録文書等を変造した者も、前項と同様とする。
3 前2項に規定するもののほか、権利、義務又は事実証明に関する文書等又は電磁的記録文書等を偽造し、又は変造した者は、1年以下の拘禁刑又は10万円以下の罰金に処する。

 ※ 「電磁的記録印章等」とは、印章等として表示されることとなる電磁的記録をいい(155条1項2号第1括弧書)、「電磁的記録文書等」とは、文書等として表示されて行使されることとなる電磁的記録をいう(同号第2括弧書)。

法制審議会刑事法(情報通信技術関係)部会第10回会議議事録より引用。太字強調は筆者。)

樋口亮介(東京大学教授)幹事
 公務員になりすましてその職務に関して作成したかのように装ったeメールを送信する行為、公務所になりすましたウェブサイトを運営する行為は、刑法第155条の公文書偽造と同様に処罰されることになるでしょう。また、作成権限を有する公務員がその職務に関して虚偽内容のeメールを送付した場合や、公務所が運営するウェブサイトに虚偽内容を記載した場合には、同法第156条の虚偽公文書作成と同様に処罰されることになると考えられます。
 私文書として用いられる電磁的記録については、権利、義務又は事実証明に関するものという限定は掛かりますが、同様に、主体を偽ったeメールの送信、ウェブサイトの運営が該当することになるかと思います。eメール、ウェブサイトという具体例を念頭に起きますと、意思表示を人に視覚的に示すデータは、社会的な役割という点からいえば、紙媒体をはるかに超えるインパクトでもって社会活動を円滑にしていると思われます。このようなデータの意思表示の主体の偽りや内容の虚偽は、その信頼を害するものであり、従前の文書偽造関連の規定に包摂できる限りで処罰することには十分な合理性が認められるように思われます。

(引用終わり)

 司法試験・予備試験で上位合格した人であっても、ごく初歩的な誤解をしていることがよくあります。これは確認可能です。上位合格した人であっても、SNS等における試験直後の投稿をみると、初歩的なミスをした旨を告白し、「あーやっちまった。」等の投稿をしていることがあるのを確認できるでしょう。また、合格発表後に成績表が届くようになると、とんでもない初歩的なミスをしたにもかかわらずA評価であった旨を告白し、「〇〇したのにA評価でした!」等の投稿をしていることが確認できるでしょう。このように、上位合格者であったり、ある科目でA評価を取った人であっても、その人が初歩的なミスをしない、ということを意味しないのです。それだけではありません。ある前提に立てば正しい解釈であっても、前提が違えば誤ったものになる、というように、一義的な結論を得ることができないことが多い、という、流動性・相対性も、法学を難解にしています。例えば、ある基本書に記載のある一般論であっても、それが論文式試験で出題された事例にそのまま妥当するかは、疑問の余地があることが少なくありません。ある基本書に記載のある一般論をそのまま論証化すれば、「正しい」かというと、その著者が前提とする考え方が受験生が一般に採用する考え方と異なるので、そうではない、ということも普通にある。とりわけ憲法では、学者によって言っていることが全然違っていて、現在において「通説」といえる見解を選定しがたかったり、昭和時代の判例法理を理解する素地になる「香城理論」について、主唱者である香城敏麿の考え方に混乱があり、主著である『憲法解釈の法理』(信山社 2004年)の記述がそのまま使えないなど、判例法理を確定することすら難しかったりします。こうしたことは、学者であってもきちんと文献調査をした上でなければ判断が付かないことであって、上位合格者やA評価を取った程度のレベルでは、全く判断できません。例えば、「営業」と「事業」の区別について、基本書レベルでは立案担当者の説明をそのまま記載するにとどめるのが通例ですが、学術論文レベルで調査すると、それが商号単一の原則に関する誤解に基づくものであることが指摘されているのです(誤解に至った原因と思われる文献まで特定する論文として、笹久保徹「「営業」と「事業」の同一性についての考察-商号単一の原則に立ち返って-」法学志林115巻3号(2018年)93~134頁。『司法試験定義趣旨論証集会社法【第2版】』「会社の行為の商行為性」の項目の※注で、簡潔に解説しています。)。基本書を数冊読んだ程度では、何も分からないのです。それにもかかわらず、手元の基本書や百選などの記載をそのまま論証化したようなものが、「上位合格者作成の論証集です!」、「自分はこの科目はA評価だったので自信があります!」などとして公開されたりすると、「上位合格者が書いたのだから間違いないはずだ。」、「A評価なら信頼できる。」などと信じられてしまいやすい。肩書が誤導的になる典型例です。
 もう1つは、採点基準がブラックボックスである、という点です。何を書けば高評価になるかが分からない。だから、「〇〇を書けば上位」のような言説がなされたときに、その真偽を確認することが難しいのですね。「自分は〇〇を書いてA評価だった。」と言われると、もっともらしいのですが、それが本当に〇〇を書いたからなのか、そうではなくて、別の論述部分が評価されたためなのか、分からない。こうしたことが、司法試験に関するネット上の言説の真偽の確認を困難にさせているのです。そのような状況の下で起こりがちなのが、「〇〇は絶対に評価されてる。俺はそれで上位合格したから間違いない。」という、「ソースは俺」という根拠を提示するパターンです。統計的には、「ソースは俺」というのは、「母数が1しかない。」という意味で、信頼性が低いことを意味します。しかし本人は、「ソースは俺」といえば説得力が増すと思って発言し、かつ、受け手の側でも、それが説得力のある言説と誤解して受け止められてしまいやすい。これも、個人の肩書ないしは実績が誤導的に作用する典型例です。
 それから、既に試験から離れて久しいのに、つい発言したくなり、いい加減なことを言ってしまうケースが多い、ということがあります。もう試験のことなんて忘れてしまっている、あるいは、現在の出題・採点傾向がどうなっているのかを全然把握していないのに、「短答の合格点が下がっているのは最近の受験生のレベルが下がっているからだ!」、「俺は合格者だから分かる。短答で落ちるやつはただの努力不足だ!」のような安易なことを言ってしまう。予備試験の民事実務基礎の準備書面問題について、「民弁(民事弁護)の問題なのに民裁(民事裁判)の教材で勉強するなんておかしい!」のような言説も、これに類するものです。準備書面問題を過去問からきちんと解いて、問題文(「認定することができる事実を踏まえて」と明示されている。)、再現答案、出題趣旨等を分析していれば、民事裁判で学ぶ事実認定論が問われていることが分かるはずですし、そもそも司法修習において、「民事弁護においても民事裁判の事実認定論が前提になるので、民事裁判の事実認定を復習しておくように」などと教わるはずなのですが、現在の出題・採点傾向を検討することもなく、過去の修習で学んだことも忘れてしまっているので、上記のようなフィーリングに基づく安易な言説をしてしまうのです。そのような安易な言説をしても構わないという動機になるのが、「俺は合格者だから、それを強調すればみんな信じてくれる。」という安易な発想です。これもまた、個人の肩書ないしは実績が誤導的に作用する典型例です。
 加えて、司法試験界には、いくつかのドグマないしバイアスがあり、それに多くの人々が影響を受けている、ということもあります。「予備校を利用するより、基本書で勉強して合格した方がカッコイイ」、「暗記ではなく本質を理解した方がカッコイイ」、「少ない枚数で合格した方がカッコイイ」というような感覚です。SNS等では、どうしても自分をよく見せようという動機が生じます。実際にはそうでなくても、「自分は基本書で本質を学びました。暗記なんて必要ありませんでした。平均4頁でも余裕で上位でした。」などと言いたくなる。「自分」という個人の属性が紐づくことで、こうした動機に駆動されやすくなる、という危険性は見逃せません。こうしたことも、誤導的な作用の源泉となるのです。
 以上のように、司法試験の世界では、とりわけ、個人の肩書ないしは実績が、誤導的に作用しやすいのです。当サイトでは、以上のようなことを踏まえ、立ち上げ当初から、個人の肩書・実績などを誇示することは一切せず、内容だけで勝負することを基本方針としています。それで信頼されないのであれば、内容に問題がある。筆者は、予備試験・司法試験ともに「上位合格者」を名乗ることができる経歴は持っています(予備口述はフツーの成績です。)が、それを敢えて表示等しないのは、「studyweb5」がウェブサイトないし組織の名称であって、個人の名称ではないこともありますが、それ以上に、肩書・実績等によって信頼を得ようなどということは一切考えていない、むしろ、危険なことだと考えているからです。「自分に有利な肩書・実績は全部プロフィールに乗せるはずだ。それをしないのは、書くと詐欺罪になるからだ。だからプロフィールに『合格者』と書いてないアカウントは全部不合格者に決まってる!」などと言われることがあるようですが、「記事は内容ではなく肩書・実績で信頼させるものだ。」という不適切な発想に立脚するものであり、「ネット記事の信頼は内容から判断される。」という冒頭で示した情報リテラシーを理解しないものだといわざるを得ないでしょう。そして、上記のように、筆者が「予備試験・司法試験ともに『上位合格者』を名乗ることができる経歴」があることを本記事で宣言できている以上、上記の論理自体、既に破綻しています。ていうか、当サイトを不合格者が書いていたら怖すぎないか。分かりそうなもんだけどなぁ、と率直に思います。なお、詳論は避けますが、「書くと詐欺罪になる。」という実体法の理解自体、必ずしも適切ではありません(書籍(より厳密には情報)について、購入者が購入時に重視した書き手(発信者)の肩書・実績が異なるという理由だけで詐欺罪の成立を認めた判例・裁判例があるか、という観点から調査すると、この意味が分かるでしょう。理論的には、情報取引における重要事項性ないし財産損害性の内実、二次的詐欺の要否に関わります。)。

4.ここまで、インターネット上の司法試験に関する記事は、個人の肩書ないしは実績ではなく、内容から判断すべきだ、ということを説明してきました。では、どのような点に着目すればよいのか。いくつかの着眼点を示しておきましょう。

(1)まずは、司法試験に限らない一般論として、同一の発信元から継続的な発信がされているか、すなわち、発信の継続性が重要です。

藤川真一「インターネットの情報発信を用いた信頼指標に関する研究」慶應大学メディアデザイン科博士論文(2017年度)18、19頁より引用。太字強調は筆者。)

 まずは情報発信を継続することについて検討する.例えば,あるアイデンティが,あるテーマでイベントを行うために匿名のままブログに記事を書き,参加者を募り,先払いでお金を集めたとして,お金を払った参加希望者に対して,その役務が正しく遂行されたかどうかは当日になってみないとわからない.参加希望者が先払いでお金を払うのは,そのアイデンティティに対して「イベントが適切に開催される期待」を持ったからである.もし,開催者が全く信用されていないのであれば,参加を躊躇しお金を支払う人はいないはずである.
 「イベントが適切に開催される期待」を得る要素として,発信しているイベントのテーマに共感することや,過去に企画されたイベントが期待通りの成果をしているという実績などが挙げられる.その他,所属している企業や実名を明かしていることや,登壇者が既に得ている信用を借りることなどが考えられう,さまざまな要因から期待を生み出すことができる.その後,イベントがスケジュール通りに適切に開催され,その品質が参加者の期待通りのものであったならば,そのイベントに対して信頼が生まれる
 信頼が生まれると次回の開催においても「高い品質のイベントに参加できるという期待」を得ることになる.そのような信頼の元,イベントの評判としてインターネット上に口コミが発生することで,以降のイベント開催において集客等がしやすくなり,イベントの継続可能性が高くなる.集客のしやすさは,イベントや運営者の知名度と提供品質に対する期待と連動するが,知名度が高くても品質が悪ければ参加者の継続率が下がることになるので,長期的にはイベントの継続性は知名度よりも,結果としての信頼に依存する。
 このような活動を続けているアイデンティティは,同一人物であるという識別可能性を前提として,イベント参加者からイベントのクオリティに対する信用を得ることになる.信用を得ることで,次なる期待を得られやすくなる.つまり,継続的な活動に対して,次の取り組みという不確実な行為に対する品質実現への期待が生まれる.そして,期待通りの品質が提供された時に,受け手が抱くものが信頼である

(引用終わり)

 上記論文はポジティブな側面に焦点を当てていますが、ネガティブな側面についても、同様のことが言えます。司法試験に限らず、誹謗中傷や根拠のない発言など、問題のある言動を繰り返す人は、問題を起こしてアカウントを消し、また別のアカウントで同じような活動をする、ということを繰り返しがちです。そのような人は、同一アカウントで長期にわたって活動することができません。同じ発信元で継続して発信を続けていて、しかも、一定の読者を獲得し続けている、ということは、それ自体として、信頼し得る方向の要素となります。最近では、合格者がnote等で合格体験記などを公開ないし販売する例が増えていますが、単に成績が上位だから信頼されている、というだけではなく、それまでの勉強の過程などをSNSや質問箱等で正直に語っており、他の受験生と継続的に交流するなどしたことが信頼の源泉になっているとも感じています。そのことは、上記の発信の継続性の文脈で理解できるでしょう。

(2)司法試験との関係では、具体的な根拠、論理、機序等を明確に示しているか、という点が重要です。
 司法試験の世界では、もっともらしいけれども、抽象的で中身のない言説が飛び交います。例えば、「頁数や文字数は関係ない。本質を書けば合格できる。」という言説は、一見もっともらしい。でも、具体的にどのような機序でそうなるのか、何も示されない。仮に、「本質を書けば合格できる。」の部分が真だったとしても、その「本質」を文字で表現するためには、最低限の頁数・文字数が必要なはずで、余事記載をやってしまうことも考慮すると、もっと余裕を持ってたくさん書かないと厳しい。その程度の頁数・文字数すら書けない人は、頁数・文字数が足りない、という原因によって、不合格になるのではないか。このように、具体的に考えていくと容易に想起できる疑問については、何も説明しない。このような抽象的で中身のない言説を多用していることは、信頼しにくい要素となります。ちなみに、上記の言説が適切でないことは、以前の記事で詳しく説明しています(「「文字数は関係ない。」は本当?」)。
 「基本書を読めば答えが書いてある。」のような言説も、具体的にどの頁に「答え」が書いてあるか特定しなければ、意味がありません。例えば、憲法で、直接的制約と間接的・付随的制約の審査基準の違いについて、「基本書に正解が書いてある。分からない人は基本書を読みましょう。」などと言われるかもしれません。しかし、代表的な基本書である渡辺康行ほか『憲法I 基本権[第2版]』(日本評論社 2023年)68、69頁では、判例を紹介して批判した上で、「間接的・付随的制約だからといって、基本権制限が容易に正当化できると思われてはならない。」と結論付けられているだけです。答案で、「容易に正当化できるわけではない。」と書いたところで、意味がありません。具体的に、どのような基準で判断するかを示す必要があるでしょう。当該記述では、第7章第3節3、第8章第2節2(3)、第10章第2節2(2)、第13章第3節3を見ろ、というレファレンスが入っているのですが、該当箇所を見ても、間接的・付随的制約となる例を挙げたり、判例を批判的に紹介したりするだけで、いかなる審査基準をとるべきかは書いていない。これでは、答案は書けないのです。「基本書に書いてある。」というのなら、どの頁にどのような「正解」が書いてあるか、具体的に示さなければ、意味がないのですね。
 思わせぶりなことをいうだけで、中身がない言説も、よくなされます。「今年の問題には、考査委員からの、あるメッセージが隠されていますね。分かる人には分かりますね。」、「みんな気付いてないんだな~(笑)。これ知ってる人はブチ跳ねただろうな~」などと言うけれど、その中身は決して言わない。こうした発言を多用することも、信頼に値しないと評価できる方向の要素です。
 それから、論文との関係では、答案例・論述例の形で示しているか、ということも重要です。よく、「1、2行程度で軽く触れればいいです。」などと安易に言う人がいます。例えば、昨年(令和7年)の予備試験憲法の問題で、「検閲についても触れるべきです。」と言い、「いや、そんな紙幅はないです。」と言われると、「いや、1、2行で簡単に書けばいいんですよ。どうとでも書けるでしょう。」などと言う。しかし、実際の論述例を示さない。本当に1、2行で書けるなら、すぐに論述例を示せるでしょう。このような人は、実際の答案における1、2行がどれほど何も書けないか、ということを理解していないのですね。それから、「判例の論理・理解を実質的に示す答案を書くべきだ。そうすれば高く評価される。」などと言いながら、では、どのような答案が「判例の論理・理解を実質的に示す答案」なのか、具体的に示さない。このような言動を繰り返すことも、信頼に値しないと評価できる方向の要素です。当サイトは、「規範と事実」が重要である、と言い続けていますが、実際に、平成27年以降、「規範と事実」に特化した参考答案を毎年示しています。また、憲法については判例で書くべきだ、と言い続けていますが、実際に、判例で書いた参考答案を毎年示しています。さらに、判例で書くための規範等をまとめた論証集も作成しています(『司法試験定義趣旨論証集(憲法)』)。民事実務基礎の準備書面問題についても、毎年、認定事実を基礎にした参考答案を示しています。こうしたことをするには、一定の労力・コストを払うことを要します。真剣に司法試験に取り組んでいるか、受験生に良い情報を届けようと心から思っているか、ということを示す要素ともいえるでしょう。
 論点等を解説する際にも、論理を具体的に示すことが重要です。「自分は上位合格者だから間違いない!」では、説明になっていない。例えば、令和6年予備試験刑事実務基礎設問3については、全面的供述不能か部分的供述不能か、供述不能の原因は何か、裁判官はどのような措置を取ったか、などがポイントになります。これらの意味を問題文に即して具体的に示しているか。当サイトでは、これらの観点から具体的に説明しています(「供述不能と相反供述の区別(令和6年予備試験刑事実務基礎)」)。異なる結論を採るとしても、これらの観点についてどのように考えるとそうなるのか、具体的な論理を示すことが重要です。これらの観点に触れないまま、「こんなの相反供述に決まってます。頭のいい人なら一発で見抜けますよ。」などと決め付ける説明とを比較すれば、どちらがより信頼できるか、判断できるでしょう。ちなみに、「私は理論的なことはちょっと分かりません。だけど……(相反供述に関する当てはめの事実を摘示するなど具体的な思考過程を示しつつ)……現場で自分ならこれは相反供述で書くと思います。それでも十分合格できるでしょう。」などとする解説は、誠実かつ合理的なもので、具体的な思考過程を示しているので、信頼し得る要素を含んでいると思います。適切な説明を読んで一度理解すれば、もっともらしく文献を引用しているのに、上記の観点にまるで気付かないまま結論を出すような人を目にしたときには、その人自身が引用文献の意味を理解していない可能性が高いとも判断できるでしょう。文献が引用されていれば信頼できる、というわけではない、という点は、論証集等の教材にも当てはまります。筆者は、「故意責任の本質は反規範的人格態度に対する道義的非難である。そして~。」という論証の参照文献として、山口総論の頁数が記載されているものに接したことがあります。「山口御大がそんなこと言うわけないだろ。」と思いつつ、念のため該当頁を確認してみると、やはり「故意責任の本質」なんて書いてない。その頁は、錯誤論(法定的符合説・具体的符合説の対立など)について書いてある、という程度でしか一致していないのでした。筆者の知る限り、令和以降に出版された学術体系書で、「故意責任の本質」に言及するものは存在しません(現在では行為無価値論者の大多数が構成要件的故意を違法要素とすることによります。なお、学者が書いた「〇〇ハンドブック」のような受験対策本は学術体系書ではありません。)。このように、「とりあえず文献の頁数を書いていれば信頼してもらえるだろう。」という安易な発想で適当に書いているとみえるものがあることには、注意が必要です。ちなみに、当サイトの記事や定義趣旨論証集等の電子書籍では、読者に有用とみえる場合に限ってしか、文献を紹介していません。それはなぜかというと、膨大な文献を参照しているので、参照文献を逐一記載していたら、それだけで十数行になりかねず、本文を読む邪魔にしかならないし、通常の受験生が読みこなせる内容でもなければ有益でもない(科目を問わず、しばしば延々とドイツのことが書いてある(憲法・刑訴は米国のことも多い。)。)からです。
 論理を示す、ということに加えて、試験問題の事例に即して解説できるか、という点も重要です。論点の抽象的な理解については、基本書の記載を引き写すように書けば、誰でもできる。ところが、本試験の問題に即して検討するとなると、とても難しい。きちんと調べて理解している人でないと、解説できません。基本書に書いてあるような抽象論は詳しく説明するけれども、本試験問題との関係になると急に説明が雑になる、という人は、本当に理解しているか疑わしいといえるでしょう。それとの関連でいうと、問題文の事実を現場でどう使うのか、という点については、適切に解説できる(ないしは、解説しようとしている)人が極端に少ないと感じます。筆者が知っている範囲では、この点を適切に解説できている(解説しようとしている)のは、BEXAの剛力大講師くらいだと思います(なお、当サイト及び筆者はBEXAと何ら提携関係にありません。)。このことが、先天的に事実を拾いまくることのできる「大魔神」と、そうでない「受かりにくい人」を固定化させる原因の1つになっていると感じています。

(3)不適切な言動がないか、という点も重要です。一般に、法律家は、SNS等での投稿について、とても慎重です。不適切な表現は、意識して避ける。「頭が悪い」、「馬鹿」、「ゴミ」、「クズ」、「カス」、「キモい」、「死ね」、「虫けら」、「ペテン師」、「クソ野郎」、「痴呆」のような、素人でもアウトと分かりそうな言葉を平気で使用していることは、少なくとも経験豊富な実務法曹ではなさそうだ、などの評価と結び付き、書き手の信頼性を揺るがす重要な要素となるでしょう。批判的な指摘をした受験生に対して恫喝するような反応をしたり、個人の身体的特徴を揶揄したり、特定の予備校講師や受験生などを名指しして、その人の個人情報を晒したり、「コイツはまぐれで受かった」、「〇〇さんは実はxxしたんですよ。」などと中傷したりするのも同様です(法務省が公表している「侮辱罪の事例集」も参照)。これはSNS等でよくみられる現象ですが、上記のような過激な表現を用いると注目が集まりやすく、フォロワー等が増えるので、どんどん増長していく、というプロセスを経て、最終的に大きな代償を払うことになります。この手の投稿について、面白半分で「いいね」を付けたり、「俺もそう思ってたw」、「まさにそれ!」、「痛快w」などと肯定的に引用したりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることになりかねないので、注意が必要です。最終的に法的な責任が否定されたとしても、それに対応するだけで失われるものがある、ということを知っておきましょう。それから、法律家の世界は意外と狭い、ということも、知っておきましょう。匿名で発信しているのでバレないだろうと思っていても、一部の界隈からは容易に特定できたりします。また、匿名の相手は別世界の人のように感じるかもしれませんが、実は明日打ち合わせで顔を合わせる人だったりするかもしれません。自分が実名で相手が匿名の場合、相手からは完全に見えています。調子に乗って罵声を浴びせていたら、相手はとんでもない人だった、ということにならないよう、SNS等での言動には気を付けるべきなのです。

5.かつては、地方在住の受験生は情報が少なく、勉強仲間を見つけることすら難しい、という環境が普通でした。それが、インターネットのおかげで、様々な情報にアクセスできるようになりました。これは、とても良いことだと思います。一方で、自己顕示欲や承認欲求を満たすために自己の経歴を誇示したり、仕事のストレスを発散するために法科大学院・予備校関係者や受験生等を揶揄・罵倒したりする悪質ともみえる情報もみられるようになっています。冒頭で述べたように、そのどれを信頼するかは、自分で判断するよりありません。当サイトも、そのことを意識して、インターネットの基本的な指針に則って活動してきたつもりです。長くなりましたが、上記で説明したことが、少しでも参考になれば幸いです。

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